疑惑

最近では、疑わないと詐欺に引っ掛かります。電話、メール、玄関先でのあらゆるところに詐欺があふれています。疑う心に我々は慣れています。

 よく信じればすくわれるという言葉があります。では、信じられなきゃかすくわれないのでしょうか。浄土(じょうど)真宗(しんしゅう)にとって「疑惑(ぎわく)」は重要な言葉です。

 真宗では私が信じる信じないという私を主語にはしません。阿弥陀仏(あみだぶつ)を主語にします。阿弥陀仏(あみだぶつ)がかならずあなたをすくうと誓われて(ぶつ)に成られた。迷うことも疑うこともご存じでお慈悲(じひ)を届けておられます。私が信じる信じないの以前に、弥陀仏(みだぶつ)が私を願っておられることを聞くのです。

 親鸞(しんらん)聖人(しょうにん)疑惑(ぎわく)和讃(わさん)を二十三首記され、疑うことの罪を記されます。ところが、その最後の和讃には

仏智(ぶっち)うたがふつみふかし この心をおもいしるならば

 くゆるこころをむねとして 仏智(ぶっち)不思議(ふしぎ)をたのむべし

疑いをなくすなくさないではなく、悔いるこころを旨として、阿弥陀仏(あみだぶつ)を拠り所といたしましょう、と閉じておられます。信じればすくわれる疑わなければすくわれるという次元ではなく、もうすでにすくいの真っただ中であったと聞かせていただくのです。

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