新しい領解文について有志の方々による声明文

勧学・司教有志の方々による声明文が発表されました。皆さんが浄土真宗のみ教えを守るために立ち上がられた方々です。以下にリンクしています。しかし、一方で新しい領解文を出そうとされている方々も今の人々に伝えようとしておられることも忘れてはなりません。志は同じなので、なんとか一緒に櫂を漕げないものか

「新しい領解文(浄土真宗のみ教え)」に対する声明(一)

 このたび御正忌報恩講におけるご門主さまの「ご消息」のなかで、「新しい領解文(浄土真宗のみ教え)」(以下「新しい領解文」)が発布された。従来の「領解文」(大谷派では「改悔文」)は、真宗法義の模範的領解を言語化したものとして、本願寺派、大谷派において、ながらく門信徒の指針となってきたが、時代の変化に応じて平易な言葉を用いた現代版の領解文として、新しく発布されたものである。

 しかし、これについては勧学寮から『本願寺新報』二月一日号において、長文で難解な解説が掲載され、『中外日報』二月十日号には、「真宗教義に沿った解釈を基礎に持たないと誤解が生じる可能性があるため、解説を熟読してほしい」との見解が掲載された。この「新しい領解文」は、五年後(二〇二八年)に全寺院での一〇〇%の唱和を目指すものとして、すでに全国各地の僧侶や門信徒に強くはたらきかけがなされ、布教使にもこれに基づき学びを深めるように指示がなされている。また、すでに本願寺及び宗派関連施設での法話は「新しい領解文」を元にするようにと指示がなされている。そのような指示がなされる以上、一々の文言については、決して誤った法義理解に結びつかないよう最大限の配慮が不可欠である。にもかかわらず、発布直後に勧学寮から長文かつ難解な解説文が出され、誤解を危惧する見解まで紙面に掲載されていること自体、異常である。これは「新しい領解文」が領解文としての意味をなさないことを示している。

 発布された「新しい領解文」は、全般を通して、宗意安心を大きく誤まるものとして懸念されるが、とりわけ『中外日報』掲載の勧学寮の見解において「特に議論した」とあった第一段の以下の箇所については、最も深刻な危惧を抱かざるをえない。

私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ

「そのまま救う」が 弥陀のよび声

 これは「煩悩即菩提・生死即涅槃」という言葉を不二円融の理をもって解釈し、「そのまま救う」という本願の救済の起こされた理由としているように読める。しかし端的に言って、如来の本願は、煩悩と菩提が「本来一つゆえ」に起こされたのではない。私たちはすでに、宗祖親鸞聖人の「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」というお言葉のなかに、本願救済の理由をいただいているではないか。「仏願の生起」すなわち本願の起こされた理由は、煩悩具足の私にこそある。無始よりこのかた出離の縁なき凡夫のために、本願は成就しているのであり、これよりほかに本願救済の理由はない。したがって、領解の表出としては、

煩悩具足 出離の縁なき わが身ゆえ

「そのまま救う」が 弥陀のよび声

という趣旨の文脈とならねばならない。従来の「領解文」において「もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて」とあり、まず第一に、自力心の否定を出言してきた所以である。しかし「新しい領解文」では、仏願の生起として、無始よりこのかた出離の縁なきわが身という機実(私の真実のありさま)をおさえるべき箇所に、「私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ」という文言が置かれている。何一つ善をなしえない煩悩具足の凡夫という機実をおさえず、煩悩と菩提が「本来一つ」であることを理由句として「そのまま」の救いを理解することは、法義の領解を大きく誤り、きわめて安易な現実肯定論に陥るおそれがある。歴史的に検証され批判されてきたものであるが、その現実肯定論とは、世俗のありさまをすべて肯定する思想であり、戦争・差別・暴力などの人間の愚かな営みを否定できないだけではなく、むしろ正当化する根拠とさえなる。それはまた、人間の意思と努力を無意味なものとし、信心も念仏も、仏法を聴聞することさえも不要とする思想に繋がる。煩悩と菩提が「本来一つ」であれば、救われる必要すらないからである。

 このように、第一段の当該箇所は、宗祖の示されたご法義に対する重大な誤解を招くものと言わざるをえない。勧学寮の解説文では、当該箇所について「阿弥陀如来の立場から」の説示であり、「さとりの智慧から衆生救済のはたらきが導き出される」と語られているが、そもそも「領解文」が自身の領解の表明であるかぎり、衆生の立場からの文言でなければ意味を持たない。仮にそれが仏のさとりの立場からは言えたとしても、領解の混乱を生ずることは明らかである。「新しい領解文」はそもそも領解文としての意義を失っているが、特にこの一段により、すでに全国の寺院・門信徒の間に大きな混乱を招いており、勧学寮の解説文は、その混乱に拍車をかけるものとなっている。

 以上、このたび制定された「新しい領解文」について、我々は、宗意安心の上で重大な誤解を生ずる危惧を抱かざるをえない。よって、この文言を領解文として出言することはできない。そして何より、宗祖のご法義に重大な誤解を招きかねない文言が、ご門主さまの名のもとに発布される「ご消息」として掲げ続けられることを、座視することはできない。

 平易な言葉を用いた現代版「領解文」を示そうとされた意図は理解できるが、発布された文言によって、かえって全国的な混乱を生じている。したがって、宗祖親鸞聖人のご法義に照らして、速やかに取り下げるべきである。そして、ご門主さまを中心として、すべての門信徒が安心して出言できる文言をあらためて作成し、真の現代版「領解文」として制定すべきである。

 なお、この声明文は本願寺派の勧学・司教有志により発するものであるが、その「志」(こころざし)とは、ご法義を尊び、ご門主さまを大切に思う、愛山護法の志であることはいうまでもない。

                          合掌

二〇二三年 三月二五日
浄土真宗本願寺派 勧学・司教有志の会

saikohji
  • saikohji

2件のコメント

  • 門信徒からの今般のことに係る声もまた、反映されるべきではなかろうかと思慮する。
    わが真宗においては僧侶も門信徒も御同朋御同行。僧俗共同で長い期間をかけて、新たな「新しい領解文」を構築してゆくべきではなかろうか。その作業によって門信徒の教義に係る理解もさらに深まろう。一部の人達に留まらず全組織・全寺院においてなされるべきと主張したい。従来、あまりにも僧侶中心若しくは僧侶のみの教義解釈リードでなかったか。そのためには、徹底した情報公開(但し門信徒と非真宗者とはその質・量について差異はあるべきと思慮するが最終的には区別無しに移行すべきと考える)。教団手続きや組織のオープン化・民主化。組織機構改革もなんのためのものかを明確になし、その民主的な評価制度も整備すべきである。その辺りの従来の蓄積したヒズミが今回のことに微妙に影響している。
     本日(4月12日)御本山慶讃法要に参列したが、「新制御本作法」の後に御門主による「私たちのちかいについての御親教」があり、そして女性リーダーのもと「新しい領解文」と冠した(浄土真宗のみ教え)の唱和が促されたが、多くの参列者は唱和にまでは至らず、驚きや違和感の表情や消極的抵抗の姿勢を感じた。受容されていないのは明白であった。伝蓮如聖人御作の「領解文」が微かに聞こえた。その御仁は周囲の方に不快感を覚えささないよう配意しつつも、御自身の領解として申されていた。それはもう共通模範文の領域を超えた当該念仏者のそれであった。私は大きな感動を覚えつつ、帰途についた。

    • コメントありがとうございます。お同行は新しい領解文の存在すら知らない方も多いのかと思います。戸惑いは当然かと思われます。
      今回の事は領解文をもう一度振り返る意味でも大きな投げかけとなりました。
      願わくばそれが、オープンに決まり、勧学をはじめとして教学機関が機能をして、皆様と作り上げていく現代の領解文であればよかったのだろうと思います。

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