驕慢

あるお参りの時でした。そこの家には、すももの木があります。齢九十を超えた人生の先輩が梯子を持って、太い枝にかけ、昇ろうとしていました。足元はふらついています。誰がどう見ても危ないのです。子や孫らが危ないといって、人生の先輩を梯子から下ろしました。人生の先輩は、「余計の心配をしおって」と怒っておられました。

 人間の眼は、外を見るように配置されています。自分を見る為ではありません。外の事は見えても自分の事は、よっぽど気を付けないと見えないのです。自分はできるはずだ、自分には関係がない、自分には起きるはずがないと思い込むことを「驕慢(きょうまん)」といいます。おごりの煩悩(ぼんのう)です。

 正信偈(しょうしんげ)には、邪見(じゃけん)驕慢(きょうまん)(あく)衆生(しゅじょう)(おごり・たかぶり・よこしまの私)と記されています。手を合わせることは、外向きの眼を、自分に向ける機会であること。念仏(ねんぶつ)を称えることは、常に阿弥陀仏(あみだぶつ)に呼びかけられていること。最近、人から注意をされていない人は、特に気を付けましょう。

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