慚愧と歓喜

浄土真宗の法話を聞くと、時々、南無阿弥陀仏ひとつで大丈夫を連呼される方がいる。
あまりに歓喜の方にばかり話が向くと、それだけでいいのだろうかと考えることがある。
すくわれるはずのないものがすくわれていくこちらからから到達できず、仏側からすくいがある緊張感もしっかりとお取次ぎをする必要があるのではないか。
そう思う正月であります。自戒も込めて

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です