何故浄土真宗は立っているご本尊なのか?

先日、お寺で「王舎城の悲劇」を鑑賞した。そこで、主人公の韋提希にお釈迦様が極楽浄土を思い浮かべる方法を説かれる。第7番目の方法を説いたのちに、宮中で立っている阿弥陀如来が現れる。
浄土真宗のご本尊はこの阿弥陀仏をご本尊としている。
なぜ立っている必要があるのだろうか。
譬えるならば、子どもが迷子になったとしよう。迷子を捜すときに手段は二通りある。その場で待つのか、探しに行くのか。山で遭難だったらその場で待つのが基本である。ショッピングセンターでもまずはその場で待つ方がいい。
しかし、迷子になった相手が小さければ小さいほど、どこにいくのかわからずこちらから動いて探しに行った方がいい。阿弥陀仏は後者である。凡夫の私が、どこに行っていいのかわからない迷子であり、自分の力で元の場所にも行けないので、阿弥陀仏の方から迎えに来てくださっているのである。その証拠が我が口元でこぼれる南無阿弥陀仏である。

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