犠牲

ジャータカや前生譚(ぜんしょうたん)など、お釈迦(しゃか)様の前世の物語を見ると、自らを犠牲(ぎせい)にして他をすくう物語がしばしば見受けられます。
 ある時は、虎の子をすくうために自らの身体を差し出す。兎の時には、老人をすくうために火の中に飛び込んで食べさせようとする。
 この犠牲的行為は、捨身(しゃしん)ともいい布施(ふせ)の最上のものとされています。仏教(ぶっきょう)では、不殺生(ふせっしょう)戒(かい)といい、生命を殺める事は禁止されていますが、仏(ぶつ)に供養(くよう)し他をすくうためであるならば、捨身(しゃしん)という布施(ふせ)として許されているのです。
ただ、犠牲(ぎせい)の目的を誤ると恐ろしい事にもなりえるのです。相手をすくうために自らが犠牲(ぎせい)になる話はたくさんあります。ところが、教団を守るために犠牲(ぎせい)をあおることは経典(きょうてん)にはないのです。後者を、教団として行っていたことがありました。「進めば極楽(ごくらく) 引けば地獄(じごく)」と戦場へと送り出した過ちがあります。
 守るべきものを度々確認しなければなりません。仏法(ぶっぽう)は我が身を映し出す鏡なのです。教団も例外ではありません。

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