教信沙弥

仏教用語(ぶっきょうようご)ではないのですが、親鸞(しんらん)聖人(しょうにん)の生き方の参考になった方ですのでご紹介させていただきます。

 教信沙(きょうしんしゃ)()は、奈良時代末期から平安時代初期を生き抜かれた方です。若い頃は奈良の興福寺(こうふくじ)仏教(ぶっきょう)を学びました。その中で、念仏(ねんぶつ)の教えに導かれ、奈良のような都市では、念仏(ねんぶつ)に集中できないと播磨(はりま)加古(かこ)隠遁(いんとん)生活を始めます。庵を建て、生け垣を作り、西の方には垣を作らず、西海に沈む夕日を見ては、南無(なも)阿弥陀仏(あみだぶつ)を称える生活を営んでいました。生計は田畑を手伝って、御礼に念仏(ねんぶつ)を称えてもらう。街道を往来する旅人の荷物を運び、御礼に念仏(ねんぶつ)を称えてもらう、という生活であったため、極貧生活であったようです。生活は貧しかったのですが、心は阿弥陀仏のお慈悲でいっぱいでありましたので、豊かでした。妻もいて、子もいたそうです。

 親鸞(しんらん)聖人(しょうにん)は、このような生活を送っていた教信沙弥を尊敬していました。越後へ流罪になられた時に、聖人(しょうにん)は言われました。「私は、僧籍(そうせき)を剥奪されて、越後に流罪となりました。僧侶(そうりょ)ではなく、俗人の証として姓を『禿(とく)』とします。しかし、念仏(ねんぶつ)に支えられた生き方をしていますので、僧でもなく俗でもない非僧(ひそう)非俗(ひぞく)になります。」と。

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