怨みの連鎖

とあるお参り先。家庭内は怨みの連鎖になっている。家族であいつこいつとなっている。
私はどちらかが、怨みを止めなければこの先ずっと続く。忍は大切です。
と言って、今度紙芝居で制作中の、龍王と悪人の話をした。その内容とは、


  昔、お釈迦様が龍王であったとき、怒り怨みを抑えたいと思い、忍を行じていた。その時、悪人が現れ、龍  の皮を主人に持って行けば褒められると思い、龍の皮をはぎ始めた。
龍王は抵抗しなかった。そして思った。
「生まれ変わったならば、この者に皮ではなく、仏法を与えよう。」
皮が剥ぎ取られ、血肉がむき出しになると今度は小さな虫たちが自分を食べている。
龍王は抵抗しなかった。そして思った。
「生まれ変わったならば、この者に血肉ではなく、仏法を食べさせよう」

というものだ。忍をまもることの難しさと大切さをたとえている。
この話をすると、
「私は仏様にはなれません」
といった。そりゃそうだ。だけれども、守れないからといって放棄するのではなく、守れないことを深く自覚することが大切ではないのか。それが浄土真宗の意義だろう。
その家にお参りにいくとき、どうかして怨みの連鎖を止めたいと意識しているのです。

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