宗教者のよろこび

キリスト教の聖者フランシスのあるエピソードです。

冬の寒い日、フランシスが弟子レオとともに旅をしていた時の事。

「レオよ、私たちが聖者の道の模範を示すようになれればと思う。だが、完全な歓びはそこにはないのだ」

しばらくして、

「レオよ、私たちが目の見えない人を治し、病気を治したとしても、そこに完全な歓びはないのだ。」

しばらくして、

「レオよ、私たちがあらゆる学問に通じていても、そこに完全な歓びはないのだ。」

しばらくして、

「レオよ、私たちがあらゆる人々に信仰を届けても、そこに完全な歓びはないのだ。」

とうとうレオが聞きました。

「では、完全な歓びはどこにあるのですか」

するとフランシスは、

「私たちが隣町についても門番が中に入れてくれず罵声を浴びたとしよう。それでも耐え忍び、この門番は神が私たちに語っているのだと謙遜と愛をもって受け入れるならば、そこに完全な歓びがあるのだ」

信仰とは、私が〇〇したというものではないのである。仏あるいは神が〇〇されたといただいたところン信仰がある。この私が主言なってはならない。

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