仮
2025年4月24日
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとゞまりたるためしなし。世中にある人と栖と、又かくのごとし。
『方丈記』の冒頭です。古文で習われた方も多いのではないでしょうか。川の水は、常に流れていて留まることがないことを、無常の譬えとして用いています。
世の中すべて無常で常に動いているのですが、「仮」に、この世界は成り立っていると仏教は世界を見ていくのです。
仏教は、我々が見ている物、私自身も含めてあくまで「仮」に出来ていると考えるのです。水は常にうごめいているけれども、仮に「川」と設定するのです。
また、この世界は私の認識で「仮」にできているともいうのです。
私の認識でできているから、同じ味噌汁でも人によって濃いと感じたり薄いと感じるのです。人によって認識が違うから、同じことをしてもストレスを感じる人がいたり、発散になったりする人もするのです。
ということは、認識を変えていくことで「仮」のこの世界は変わるのです。ここがなかなか難しく、だからこそ阿弥陀仏は立ち上がられたのです。