見られているという感覚

先日、葬儀があり、親族の中に中学時代の先生がおられた。直接の接点はなかったが、私には多大な影響を与えて下さった方だ。葬儀の間はまさかおられるとは知らず、火葬の待ち時間でそれがわかったのである。
いつどこで誰が見ているかわからないからこそ、自らの姿勢を正すことが出来る。
「お天道様がいつも見ているからね」と昔は言ったが、これは「仏様がいつもみているからね」と同じ感覚だ。

これには、いつも見られているから気を付けなさいといういみもあるが、いつも見ているから安心しなさいという意味を含まれているのである。

saikohji
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